W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2024. 10.27 降誕前第9主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。・・・主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ。(箴言8章1・31節)
「知恵の呼びかけ」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。・・・主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ。(箴言8章1・31節)
「知恵の呼びかけ」 深見 祥弘
先月9月23日(月・休)、滋賀地区信徒大会が彦根教会で開催されました。
私たちの教会から8名、全体では85名の参加者でした。この会では、露のききょうさん(故2代目露の五郎兵衛さんの長女)の福音落語を楽しみました。ききょうさんは、クリスチャンであり、落語家さんであり、自称女優さんです。ききょうさんが落語の枕で「女優です」と自己紹介されると、会場から笑いがでました。今、BSで朝ドラの「カーネーション」が再放送されていますが、ドラマで国防婦人会の人々が出てくる場面があるそうですが、その一人が自分ですと言われました。
この日、ききょうさんは、旧約聖書に出てくる「ソロモン王の名裁き」を、江戸時代の大阪の町人に置き換えて話をされました。ソロモン王は、今から3千年程前のイスラエルの王です。王は神の知恵に満ちていました。ある裁判において、死んだ赤ん坊と生きている赤ん坊を前に二人の女が、互いに生きている子が我が子だと言って奪い合いました。王は生きている子を剣で裂いて半分ずつ二人に取らせるよう命じました。女の一人は「裂いて分けてください」と言い、もう一人の女は「この子を生かしたままこの人にあげてください。」と言いました。これを聞いて王は、相手の女に「この子をあげてください」といった女こそ、生きている子の母親であると判決を下しました。イスラエルの人々は皆、王を敬いました。神の知恵が王の内にあって、正しい裁きを行うのを見たからでした。
今朝のみ言葉は、旧約聖書、箴言(しんげん)8章1節・22節~31節です。箴言1章1節には、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と書かれています。この「箴言」とは、教訓の意をもつ短い句、戒めとなる言葉のことです。ですからこの書は、「ソロモンの格言集」と言うことができます。またこの書は、ソロモンのみならず王国時代以降紀元3世紀までの格言や教訓を、さらには知恵の本質、神・人・宇宙に関する思索までも納めています。そして格言や教訓の一つ一つは、神の律法を知りつつ、人生におけるさまざまな経験に基づき、どうしたら正しい道を歩むことができるのかという知恵を示すものです。これらを集め「箴言」として編集した者は、「主を畏れることは知恵の初め。」(1:7)、このことを人々に伝えようといたしました。
8章で「知恵」は、擬人化され、人々に呼びかけます。知恵である「わたし」は、高い所、道端、道路の四つ角、町の入口、城門の傍らなどに立って声をあげます。神の知恵が人々の所に来て、「人よ あなたたちに向かってわたしは呼びかける。」(4)と、人々に、特に浅はかな者、愚かな者に語りかけます。「わたしの口はまことを唱える。・・・わたしの口の言葉はすべて正しく よこしまなことも曲がったことも含んでいない。・・・知恵は真珠にまさり どのような財宝も比べることはできない。」(7.8.11) 人の言葉は、それがどんなに良いことであっても、その中に誤りを含んでいるが、知恵の言葉は、正しく、高価なものである。その知恵の言葉が「わたし」となって、道端や四つ角に来て、人々に呼びかけている。(キリストの受肉を示す)
次に知恵である「わたし」には、愛と義と力があると告げます。「わたしによって王は君臨し、・・・正しい裁きを行う人は皆 わたしによって治める。わたしを愛する人をわたしも愛し わたしを捜し求める人はわたしを見出す。・・・わたしの与える実りは どのような金、純金にまさり わたしのもたらす収穫は 精錬された銀にまさる。慈善の道をわたしは歩き 正義の道をわたしは進む。」(15.16.17.19.20) (キリストの愛と義を示す)
さらに知恵である「わたし」は、神が天地を創造される前から存在していたと告げます。「主は、その道の初めにわたしを造られた。」(22)その道とは、20節に出てくる「慈善の道」、「正義の道」のことです。「(わたしを)造られた」、ヘブライ語のカーナーという言葉で、「造られた」という意味とともに、「得ておられた」という意味もあります。「造られた」との意味から、4世紀、キリストは被造物であると主張する異端者も現れ論争になりました。主は天地創造に先立って「知恵(わたし)」を「得ておられた」、「祝別されていた」(23)、「生み出されていた」(24)、「そこにいた」(27)というのです。(キリストの先在)
10月11日(金)夕、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)へのノーベル平和賞決定のニュースが報じられました。広島市にお住まいの小倉桂子さん(87)は、広島市内で被爆証言をして帰宅したところでした。小倉さんは、8歳の時、爆心地から2.4㌔の自宅近くで被爆しました。1979年に広島原爆資料館長をしていた夫の馨さんが亡くなった後、「ヒロシマを伝えるために」と英語を学び、来訪する外国人のコーディネーターや被爆者の通訳をしてきました。初めて人前で自身の体験を証言したのは83年、当時西ドイツで行われた反核集会においてでありました。以来「自分が話さねば」との思いが募り、広島を訪れる外国人(G7サミットでは各国首脳らと対面した)に、また外国に出向いて(米国退役軍人らのイベント)体験を語ってこられました。核戦争の危機が高まる今、小倉さんは「被爆者の言葉にはリアリティーがある。まず『知る』ことから始めてほしい」と言われます。
長崎市にお住まいの築城昭平さん(97)は、9月23日、長崎原爆資料館を訪れたオランダ人グループに英語で被爆体験を語りました。師範学校2年生の時、学徒動員先の夜間作業から戻り就寝中に、爆心地から1.8㌔で被爆しました。左の手足をやけどし、ガラス片で体中から出血しました。放射線による急性症状による高熱と血便、脱毛にも苦しみましたが、一命をとりとめました。戦後、中学校の先生になり、70年に「被爆教師の会」を結成し、以来修学旅行生らに体験を語ってきました。「世界の人に体験を聞いてもらわなければ」と思い、英語で証言を始めたのは90歳からです。そのために今も1日3~4時間、CDの教材で英語の学びを続けています。「上手でなくても直接話した方が伝わると感じ、脚が不自由になりましたが、依頼があれば、つえを頼りに語りに行きます。」と言っておられます。(毎日新聞10/18「2024秋ヒバクシャ(中)」より)
「知恵がよびかけ 英知が声をあげているではないか。」(箴言8:1)
今お話したお二人は、ご自分の被爆体験を、いろいろなところに出かけて行って語っています。平和とは真逆の方向に歩みを進める世界にあって、日本被団協のノーベル平和賞受賞に際して、わたし自身も含めてわたしたちは、また世界の人々は、被爆された方々の呼びかけに聞き、その知恵に学び、核兵器の廃絶、そして平和の実現へと歩みはじめたいものです。
知恵である「わたしの与える実りは どのような金、銀にもまさり わたしのもたらす収穫は 精錬された銀にもまさる。慈善の道をわたしは歩き 正義の道をわたしは進む。」(19~20) 世界の創造主と共に、この世界を創り、罪の世界に来て福音を語り、罪人にかわって十字架に架かり、新しい命の恵みをもって復活された、神の知恵である「わたし」(キリスト)の呼びかけに応えましょう。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33)
2024. 10.20 聖霊降臨節第23主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
(マタイによる福音書5章39節)
「しかし、わたしは言う」 仁村 真司牧師
< 今 週 の 聖 句 >
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
(マタイによる福音書5章39節)
「しかし、わたしは言う」 仁村 真司
もしもパウロとマルコが新約聖書を見たら、きっと二人とも怒り出すだろう・・・と、前回そんな私の空想、想像の話をしました。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリントの信徒への手紙一2章2節)、つまりこの世でのイエスの言動には全く関心を示さない、示すべきではないとするパウロは、この世でのイエスの言動を伝える福音書と自分が記した書簡とが一緒に正典になっていることを・・・。
パウロとはある意味で正反対に、この世の現実を人々と共に生きたイエスの姿・思い出を伝える福音書を最初に記したマルコは、パウロ書簡と一緒になっていることもありますが、それに加えて自分が著した福音書の大部分を写しながらも(マルコからすれば)肝心な所が書き換えられたり、削られている他の(マタイ・ルカ)福音書をあることを・・・。
まあ怒りはしなくても、間違いなくピックリはするだろうと思うのですが、今回はパウロは勿論知らなかったし知る気もなかった、マルコは知らなかったのでしょう、マルコ福音書には記されていない、けれども大変有名な「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、このイエスの言葉からいろいろと考えていきます。
1)
この言葉はルカ福音書にもありますが(6章29節「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」)、マタイはこれをイエスによって完成された律法の一つとして伝えています。
マタイ福音書のイエス・キリストは「律法の完成者」です。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5章17節)
そうして、ユダヤ教律法(律法や預言者)に対して「完成された律法」が六項目示されるのですが(21〜48節)、その内の一つということです。
ポイントは従来の律法の「廃止」でも「改正」でもなく(18節「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」)、「完成」ということです。
私にはこの場合の「完成」とは、現実離れして、実行不可能なぐらいに厳しくすることのように思えます。例えば21節〜腹を立てれば殺人と同じ。
それはともかくとして、では何をどう厳しくすれば「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」になるのかということです。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
(38~39節)
「目には目を、歯には歯を」と言うと攻撃的、「やられたらやり返せ」ということのようですが、とするとどう厳しくしても攻撃性が増すばかりで「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」にはたどり着きません。
「目には目を、歯には歯を」は律法(旧約聖書)よりもはるかに古くハムラビ法典にもありますが、古代オリエントの民法・刑法の基本で、仕返しは受けた被害と同じ程度までは認められるという被害者保護の意味合い、でもそれ以上の仕返しは認めないという加害者保護の意味合いもあります。
この古代社会においてある意味で公平で平等、人道的な規定を、もっと厳しく突き詰めていけば、「右の頬を打たれたら、左の頬をも・・・」・「下着を取ろうとする者には上着をも・・・」ということにもならなくもない。そしてこれは従うべき厳格な掟というよりもイエス・キリストの「愛の教え」を端的に現す代表的な言葉として、「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節・ルカ6章27節)と結び付けて受け止められて来ました。
2)
さて、私としては到底実行不可能と思える、マタイ福音書がイエス・キリストによって完成されたとする律法ですが、この中にあって「右の頬を打たれたら、左の頬をも・・・」は、まだやろうと思えばやれないこともない。私はしたことはないですが、「左の頬をも・・・」どころではなく、身をさらして何発も殴られるようにしたという人に何度か出会ったことはあります。
家で暴れる我が子に親が「殴るなら私を殴りなさい」ということが多いですが、話を聞いてみると殆どの場合実質的には殴るように強制して、殴られる親の方が心理的に優位になるようにしているのですが、事情はどうであれこんなことをしても何も良いことはなくて、子どもは、そして多分親も、益々辛く、苦しく、悲しくなって、追い詰められて行くだけです。
ルカが伝える「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」の方が元々の言葉遣いに近いと思いますが、確かイエスはそう言った、人々に語った。しかし、それは「愛の教え」としてではなかった。「敵を愛しなさい」と結び付けてではなく、「完成された律法」の一つとしてでもなかったと私は考えます。
2024. 10.13 聖霊降臨節第22主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスは国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 (ヨハネによる福音書11章51~52節)
「死の先にある新生」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスは国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 (ヨハネによる福音書11章51~52節)
「死の先にある新生」 深見 祥弘
先週7日(月)~8日(火)、滋賀地区教師一泊研修会が行われ、13名で能登に出かけました。ご承知のように能登は、元日に震災にあい、さらに先月には水害によって被災されました。この研修会は、水害に被災される前から計画されていました。震災後10ケ月がたちましたが、被災地はどのような状況なのか、またその地にたてられている教会や信徒・教師の皆さんはいかにお過ごしなのかを、実際にお会いして知ろうということでありました。その後9月21日、豪雨により再びこの地は被災いたしました。
13名は、7日(月)午前10時に集合し、八日市保育園のバスに乗り、途中休憩をはさみながら、6時間かけて能登に向いました。能登地方には教団の教会が3つ、七尾教会、羽咋教会、輪島教会があります。この日訪問したのは、七尾教会・七尾幼稚園です。当日は雨が降っていたため、釜戸達雄牧師がバスに乗ってくださり、七尾で大きな被害の出た一本杉通りを案内してくださいました。そこは、古い街並みの残る地域で、観光の方々も訪れるところですが、ほとんどの店や家屋が倒壊などの被害を受けていました。幼稚園の職員のお宅も公費解体をしているところだとうかがいました。七尾教会と幼稚園は新しい建物ですが、教会と幼稚園を繋ぐ部分に被害がありました。その後、釜戸先生から一時間あまりお話をうかがいました。震災直後、幼稚園に避難される方々が来られ、1週間避難所としての働きをしました。公の避難所ではありませんが、カンボジア人の技能実習生9名も避難してこられ、この方々が教会員や幼稚園職員に加わってお年寄りをサポートしたり、掃除や皿洗いを手伝ったり、東南アジア風の料理を作ってくれたりしたそうです。釜戸先生のお話で一番印象に残ったのは、能登は「半島」であるということです。諸説あるようですが、能登とはアイヌ語の「ノッド」(とび出した所)からきているそうです。被災した能登の復興がなかなか進まないのは、能登が「半島」であるからと話されました。阪神淡路震災や東日本大震災の時は、被災後、周りから一斉に人手が入りました。また島ならば、何かあったときにすぐに人手の入るのが難しい場合があるので、当面自分たちで何とかできる体制(自己完結できる体制)ができています。これらに対し半島は、半分島であるにもかかわらず、四方と容易につながることができると考えてきました。そのため震災や水害への備えが十分でなく、被災した後の対応やその後の復興に支障がでてしまったとのことでした。夜は七尾市内の海のそば、和倉温泉に宿泊しました。たくさんの旅館が立ち並ぶ全国的に有名な温泉地ですが、現在、営業しているのは三軒だけで、夜は真っ暗でした。翌朝、温泉街の状況も見ましたが、有名な旅館等も含め多くの建物は、立て直す必要があり、それには相当の時間が必要のように思いました。
二日目は、のと里山海道を通って輪島にいきました。自動車道としてつくられた道ですが、陥没や崩落等の被害を受けていました。7月に対面通行できるようになりましたが、応急工事によりでこぼこの状態です。その道は、輪島が近づくと川沿い(河原田川)を走りますが、大雨により多数の箇所で山が崩落して山津波が発生し、人や家屋が流されました。のと里山海道は、復旧作業にあたる車が行き交い、輪島の町に入ると、そこかしこに倒壊した家屋がそのままの状態でありました。朝市周辺は、火災によって生じた残骸のほとんどが取り除かれていました。輪島教会(新藤豪牧師)は、教会堂が大規模に被害を受け使用できない状態です。今は、仮設の建物ができて、そこで礼拝を守っておられます。また牧師館も被災し、新藤先生は長い期間避難所で生活をしてこられました。今は、水も通り、牧師館で生活できるようになりました。教会は、倒壊した七階建ての輪島塗り製造販売会社ビルまで歩いて三分ほど、朝市まで五分ほどのところにあります。お訪ねしたこの日、石川地区教師会が輪島教会で行われ、短い時間でしたが交流の時をもちました。
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書11章45~54節です。11章は、ベタニアに住むマルタ、マリアの兄弟ラザロが病によって亡くなり葬られたあと、復活した出来事を記しています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25)と言われるイエスが、葬られたラザロに呼びかけると、彼は生き返ったのでした。
さて、ラザロのよみがえりを目撃した人々の多くは、イエスを信じました。しかしこの出来事を受け止められず、ファリサイ派の人々の所に行って告げた人々もいました。最高法院が招集され、イエスへの対応を審議しました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 彼らは、イエスの人気が高まると、民の自分たちに対する批判が生じ混乱した状態になる。そうするとローマの武力干渉も生じるかもしれない。ファリサイ派が恐れたのは、イエスのことをきっかけに自分たちの支配体制を失うことでありました。
最高法院の議長であった大祭司カイアファが言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」彼は国民全体を救うために、一人の男を殺そうと提案しました。それは、「国民全体」を救うという美名のもと、自分たちの保身を考えてのことでした。
ところが聖書は、神が大祭司を神の救いの計画の道具として用いられたと書いています。「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」イエスの十字架の死が、ユダヤ人のみならず、異邦人を含むすべての民の救いのためである。たとえ、彼らが神を知らなくても、神は彼らを知っておられる。そうした人々を集め、一つの教会に連ならせる道が、イエスの十字架の業である。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。・・・こうして、羊は一人の羊飼いに導かれて、一つの群れとなる。」(10:16) 大祭司の提案は承認され、イエスの殺害が議決されました。
説教題を「死の先にある新生」といたしました。その意味は、イエスの死がユダヤ人ばかりでなく、異邦人を含むすべての人を集め救うためであるということです。苦難の行き着く先は、死という終わりではなく、その先にある新生です。十字架のイエスこそが、苦難を受ける人々を知り尽くし、新しい命へと導く大祭司であります。
能登の地にたてられている教会が、苦しみの中にいる人々と共にあり、この人々を集め、良き羊飼いである主イエスによって、人々を新生へと導く働きをしてゆくことを信じます。輪島教会は、痛んだ教会の姿をもって、人々の苦しみとそれを知っておられる十字架のイエスの姿を証ししているように思いました。七尾教会は、そこに避難し集められた人々が、良き羊飼いであられる主イエスの力を得て、互いに仕え支え合う姿を証ししているように思いました。能登の地に、主の復活の恵みがありますように。
2024. 10.6 聖霊降臨節第21主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
(フィリピの信徒への手紙1章29節)
「苦しみに意味はあるのか」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
(フィリピの信徒への手紙1章29節)
「苦しみに意味はあるのか」 深見 祥弘
9月26日(木)静岡地裁は、袴田巌さんに対するやり直し裁判(再審)で、無罪判決(求刑・死刑)を言い渡しました。裁判長は、捜査機関が三つの証拠を捏造したと認定し、「袴田さんが犯人とは認められない」と述べました。
これは1966年6月、静岡の味噌製造会社専務宅で家族四人が殺害された事件で、同年8月従業員であった袴田巌さんが逮捕されました。袴田さんは初公判から無罪を主張しますが、翌年67年8月、工場の味噌タンクから「5点の衣類」が見つかったとし、これを証拠として、68年9月、死刑判決が出ました。80年11月、最高裁は上告を棄却し、翌月死刑が確定しました。2014年3月、静岡地裁が再審開始を決定し、袴田さんは釈放されました。再審開始は後に取り消されますが、2023年3月、東京高裁がふたたび再審開始決定を出し、同年10月から再審が始まりました。(毎日新聞9/27参考)
袴田巌さんは、冤罪によってその生涯の多くの時を拘禁され、怒りと恐怖、苦しみと悲しみの中で過ごしてこられました。無罪判決が出された今、これまでの日々にどのような意味があるのかとの思いに満たされます。
袴田巌さんは、1984年12月24日、東京拘置所において教誨師志村辰弥神父より洗礼を受けられました。袴田さんは、カトリックの信者さんであります。その日の日記にはこうお書きになっておられます。「今日はクリスマスイブ、待望の吉日である。午前十時頃主任殿が洗礼だとおっしゃって呼び出しにこられた。例によって教誨室に赴く。教育課主任殿と保安課主任殿がこの儀式に立ち会ってくれる。志村神父様は儀式服をお召しになり、とても静かな面持でお祈りを捧げておられた。私はやがて招かれて十字架の正面に進み出る。そして、厳粛に洗礼に授かる。殊に額に十字架の印を刻むように受けた時には、私の全身の周囲が明るくなり、和やかな光りさえ感じたのであります。洗礼の妙、幸福の永生、初めて燃え上がる真の生命、輝く星花を感激に満ちて凝視したのである。この時こそ正に私にとって新鮮な歴史が開花する瞬間であった。いや歴史だけではない。キリストの福音にあって勝利と誉を歌いあげる天上の予感であった。予感だけでもない。精彩を放ってあたかも勝利を組み立てる芸術者たる、神を拝す心地よい感動の極地であった。そうだあの瞬間は、あらゆる高義なるものが結実された私にとって唯一最大の栄光の絶頂であったのだ。アーメン。」(「獄中の祈り―無実の死刑囚、袴田巌の日記より―」 カトリック正義と平和協議会 袴田巌さんと共に生きる会 発行 1988)
今朝のみ言葉は、フィリピの信徒への手紙1章27~30節です。この手紙は、パウロ(テモテ)から、フィリピにある教会に送られました。フィリピの教会は、パウロたちの第2伝道旅行の際に設立されたヨーロッパ最初の教会です。パウロは、第3伝道旅行途中、滞在していたエフェソの獄中でこの手紙を書きました。エパフロデト(獄中のパウロを支えるためにフィリピの教会が派遣した)の病気が回復したので送り帰し、彼にこの手紙を持参させました。その手紙には、パウロの身に起きた投獄について、それは生死の運命を左右するものであったが、そのことがかえって福音を宣教する機会となったとの報告、そして、自分がフィリピを訪問するまでの間に心がけてほしいことについて記しています。すなわち死に至るまで神に従順であることによって、主とされたキリストを思い起こし、フィリピの人々がキリストに属する者にふさわしく生きるようにと勧めをしています。
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」(27)そうすれば、パウロが自由の身となってフィリピを訪れた時に、いやそれがかなわないときでも、次のような報告を聞くことができるでしょう。すなわちフィリピの教会に連なる人々は、反対者たちによる妨害によって苦難を経験しても、主の霊によって一つとされてしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために戦っているとの報告です。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(29) パウロにもフィリピの人々にも信仰が恵みとして与えられていますが、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられています。パウロとフィリピの人々の苦しみと宣教の戦いは、キリストのための苦しみと戦いであるのです。
今朝の説教題は「苦しみに意味はあるのか」であります。29節の「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」という言葉からこの題をつけました。では、人に臨み来る「苦しみ」には、意味があるのでしょうか。
聖書に見出す「苦しみ」の意味は、悪しき者に与えられる神の罰、罪の結果であるという考えです。また聖書に見出す「苦しみ」の意味は、神の民への教育として与えられるとの考えです。ふさわしくないところがあるので、それに気づかせ、悔い改めに導くために与えられるということです。
さらに聖書に見出す「苦しみ」の意味は、苦しみの意味はわからないが、それが神から来たもの(御心)であるとの考えです。しかし不条理な苦しみを経験している人に、意味もわからないまま「それは神の御心だ」ということができるのでしょうか。このように聖書から納得のいく「苦しみ」の意味を見出すことはできません。
聖書は「苦しみ」の人々に、十字架のイエスに目を向けるように促しています。イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれました。これは詩編22編1節の言葉で、意味がわからないまま苦しみを経験しているある信仰者の叫びであります。イエスはこの信仰者の苦しみの叫びを担い、十字架において父なる神に「なぜ」と叫ばれたのです。そしてイエスが父なる神に叫ばれたことによって、苦しみの中にいる人も、イエスの名によって父なる神に「なぜ」と叫び祈ることがゆるされたのです。
世になぜ「苦しみ」が存在するのか、なぜ理不尽な「苦しみ」を引き受けなければならないのか。残念ながら聖書には、この問題の完全な答えを見出すことができません。わたしは罰として「苦しみ」が与えられているのか、教育・悔い改めのために「苦しみ」が与えられているのか、訳もわからぬまま神の御心であるので「苦しみ」を引き受けなければならないのか。
こうしたことを問い続ける中で人々が見出したのは、イエス・キリストが「なぜ」と問う人々と共にいてその人々の苦しみを担いながら、父なる神に「なぜ」と叫んでくださったことです。
袴田巌さんは、共におられる主を覚え、日記に「マルコによる福音書11章24節 そこであなたがたに言うが、なんでも祈り求めることはすでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(同書1981年7月19日日記)との聖書の言葉を記しておられます。
今朝のみ言葉「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」は、十字架においてキリストがわたしたちのために「なぜ」と問い苦しんでくださっていることへの感謝と希望と讃美の言葉です。「苦しみに意味はあるのか」、この問いの答えは、共にいて父なる神に「なぜ」と叫んでくださる「苦しみ」のキリストへの信仰にこそ見出せるのです。
< 今 週 の 聖 句 >
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
(フィリピの信徒への手紙1章29節)