W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2024. 7. 28 聖霊降臨節第11 主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、
これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
(ヨハネによる福音書6章49~51節)
「天から降って来たパン」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、
これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 (ヨハネによる福音書6章49~51節)
「天から降って来たパン」 深見 祥弘
「マンナ」というお菓子(森永製菓)があります。幼児からお年寄りまで幅広い年齢の人を対象にしたビスケットで、長年に渡り販売され多くの人に愛されています。この「マンナ」(マナ)の由来は、聖書に出てくる食べ物です。ヨハネ福音書6章49節に「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」とあります。「マンナ」は旧約聖書・出エジプト記16章で、神が荒れ野を旅するイスラエルの民に与えた食べ物として紹介されています。
かつてイスラエルの民は、奴隷生活をしていたエジプトを脱出し、1か月後、シンの荒れ野にやってきました。そこで民は、モーセに対し水や食べ物のことで不満を言いました。「我々をこの荒れ野に連れ出して、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3) 民の声を聞いた神は、夕方にうずらを、朝には露とともにマナを与えました。「マナ」とは、マン・フー(これは何だろう)からきています。民がこれを見たとき、「これは何だろう」と口々に言い、それがこの食べ物の名となりました。
「マナ」はコエンドロの種(レモンに似た甘い芳香がある)のようで、その色は黄色がかった半透明でありました。毎朝一人につき1オメルが与えられ、民はこれを臼で引いて粉にし、煮たり焼いたりしてパンのようなものを作りました。出エジプト記16章31節には「蜜の入ったウェファースのような味がした」と書いています。「マナ」は普段の日、余分に採って残しておくと虫がついて臭くなりました。でも安息日の前日は、翌日分を採って残しておいても虫はつかず臭くもなりませんでした。「マナ」はイスラエルの民が荒れ野を旅する間、与えられました。
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書6章41~59節です。ヨハネ福音書6章は、「イエスが命のパン」であることを伝えています。6章35節にはイエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と日々の糧や安らぎを与える御方であること、51節には「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」とイエスが永遠の命をお与えくださる御方であることを述べています。
またヨハネ福音書6章は、わたしたちにモーセの導きによる出エジプトと荒れ野の旅を思い起させるとともに、イエスの導きによる私たちの生涯の旅とその後の永遠の命と神の国を望み見させてくれます。
1~15節は、「イエスによる五千人の給食」の話です。ここに「過越祭」(4)とあります。出エジプトに際しイスラエルの人々は、民の家に小羊の血を塗りました。神の災いがその血をしるしとしてイスラエルの家を過越し、エジプト人の家に臨んでいる間に出発したことを記念するのが、過越祭です。イエスが神の小羊として十字架に架けられたのは、この過越祭の時でした。また「イエスは山に登り」(3)とあります。エジプトを脱出した民は、シナイ山の麓に到着しました。モーセは、一人山に登り、神の言葉(十戒)を受け取りました。イエスもこのとき山に登られました。さらにイスラエルの民は荒れ野で水や食べ物について不満を言い、神は民にマナを与えられました。この時イエスは、少年の持っていた五つのパンを祝福し、五千人の人々を満腹させ、残りのものを集めると十二の籠にいっぱいになったのでした。
16~21節は、「イエスが湖の上を歩く」出来事が書かれています。「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」(19~20)
これは、イスラエルの民が紅海を渡った出来事を思い起こさせます。イスラエルの民は海を見て、また追ってくるエジプト軍を見て恐れましたが、モーセの励ましで海を渡ることができました。イエスは、ここで「わたしだ。」と言っておられます。直訳すると「わたしはある」となります。かつて神はモーセに御自分を「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3章14節)と名乗られました。イエスは恐れる弟子たちに、わたしは神(救い主)であると言って励ましているのです。
イエスは御自分を「天から降って来た」(38)「天からのまことのパン」(32)と紹介し、「わたしをお遣わしになった方の御心を行なうため」(38)に来たと言われました。その神の御心とは、神がイエスに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであり、イエスを見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであります。すなわち人々は、イエスが天から降って来た者で、命のパンであることを信じるなら、永遠の命の恵みを受けることができるのです。
このことに関して衝撃的であったのは、イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(54.55)と話した言葉でした。ユダヤ人たちは、この言葉に戸惑い激しく議論をいたしました。
旧約聖書は、動物の血を飲んではならない(レビ記17:14)と教えています。
血に命が宿っている考え、その命は神のものであるという考えによってです。ですから動物の肉を食べる時には、動物に命を与えた神にそれをお返しするという意味で、その血を地面に流すように教えたのです。律法においてそれを教えられた神が、神の子イエスをわたしたちの救いのために人間としてこの世に降らせ、わたしたちの罪をこの子に背負わせ、十字架に架けてその肉を裂き、血を流させて死へと導きました。神の御心によって、神の子の命をわたしたちに差し出してくださり、これをわたしたちのまことの命とすることをゆるしてくださいました。
わたしたちは神より差し出された恵みを、聖餐のパンとぶどう酒としていただきます。「マンナ」はイスラエルの民の空腹を満たしましたが、まことの命を与えることはできず民は死んでしまいました。しかし十字架のイエスがわたしたちに与えるパンとぶどう酒は、イエスを救い主と信じる信仰によって「まことの食べ物」「まことの飲み物」(55)となり、これを食べる者を永遠に生かすのです。
説教題を「天から降って来たパン」といたしました。これは、イエス・キリストのことです。「天から降って来た」とは、イエスを天の神から世に降された救い主と信じる信仰であります。「(生きた)パン」とは、イエスがわたしたちの日々も死後も、守りと導きを与えて生かしてくださる恵みであることをあらわしています。これを食べる者は、イエスの肉と血(命)によって永遠の命をいただく、すなわち生きている時も死んだ後も、神との関係が永遠に続き、イエスの命の恵みによって生かされるのです。パンとぶどう酒をいただくとき、信仰がなければ旧約時代の「マンナ」と同じくそれは日毎の糧でありますが、信仰をもってこれを受けるならば、わたしたちは永遠に生きるのです。
2024. 7. 21 聖霊降臨節第10主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 (使徒言行録12章5節)
「 世にあって・・・ 」 仁村 真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈
りが神にささげられていた。 (使徒言行録12章5節)
「 世にあって・・・ 」 仁村 真司
新約聖書には「ヘロデ王」と呼ばれる人が何人か出て来ます。イエスが生まれた時の「ヘロデ王」(マタイ2章)は通称へロデ大王、洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスも「ヘロデ王」と呼ばれていますが(マルコ6章14節)、この人はガリラヤ領主でした。
今日の箇所に出て来る「ヘロデ王」は、ヘロデ大王の孫でヘロデ・アンティパスにとっては甥にあたるヘロデ・アグリッパー世です。
1)
当時ユダヤの「王」になるための絶対条件は、ユダヤの人々に認められることではなく、ローマ帝国に認められることです。そうするといきおい「王」となってからもユダヤの人々ではなく、ローマの方を向いた、親ローマ的な姿勢、方針・政策をとる、乃至とらざるを得なくなります。
かと言って、あまりに露骨な“ローマファースト”ではユダヤの人々の反感・反発をかうことになります。これにどう対処するのか⋯歴代の「へロデ王」の重要課題でした。下手に力で押さえ付けて却って反発が強まり、暴動にでもなれば、ローマから統治能力を疑われ王位も危うくなります。
さてヘロデ・アグリッパです。この「ヘロデ王」はこの辺りのことを実に巧みにやってのけ、41年には祖父へロデ大王に匹敵するパレスティナ全土の王となり、以後44年に急死するまで失脚せず王位にとどまりました。
この人はローマ皇帝(カリグラ、次のクラウディウス)に取り入り、パレスティナ全土の王となるや(まるで人が変わったかのように)敬度なユダヤ教徒のように振る舞い、その姿を人々に見せつけたのですが、これがユダヤ教の最大勢力となっていたファリサイ派の人々に大いに受けます。
そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄
弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更
にペトロをも捕らえようとした。(1~3節)
この迫害もアグリッパの「親ローマ隠し」の親ファリサイ派政策の一貫と考えられます。
2)
このような世にあって教会はどのように動き、また動かされて行くことになったのか・・・。
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈
りが神にささげられていた。 (5節)
「彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」は、「彼のために神に対する祈りがずっと(原意は「広げられ」)生じていた」が直訳です。
なので、「教会では・・・」ではなく、「教会が広げられ生じていた祈りの中にあった」と言ってもいいのかもしれませんが、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に大勢の人が集まって祈っていました(12節)。
そこに牢から逃れたぺトロがやって来ます。
門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声
だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが
門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」
と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。・・・(中略)・・・ペトロは戸をた
たき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
(13〜16節)
ペトロが門の前に立っていると告げるロデに「あなたは気が変になっているのだ」と言った人は、婦人たちからイエスの復活(空の墓での出来事)を伝えられ、それをたわ言のように思い信じなかった使徒たち(ルカ24章10節)と重なるような気もします。ペトロのために祈っていたはずなのに、いざぺトロが無事に戻って来ると、「そんなことある訳ないだろう」ということですから、不信仰だ、信仰が弱い・足りないと言えなくもない。
・・・にもかかわらず、神はペトロを救い出し、迫害の世にあっても教会を守り導いてくださったのだ。おそらくはそんなニュアンスで語り伝えられていた話が今日の箇所に記されているのだと思います。そして、そのような話の大元は、17節に「主が牢から連れ出してくださった次第を説明し」とありますが、このペトロの「説明」だと考えられます。
3)
ペトロが「説明」したという「主が牢から連れ出してくださった次第」は6〜11節に記されています。
6節「二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」・7節「天使は・・・脇腹をつついて起こし」・8節「また天使は、『上着を着て、ついて来なさい』と言った」・9節「それで、・・・外について行ったが」・10節「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て・・・」。
細かいことまで(ばかり)やたらに詳しいのは、この話の出所が実際に牢から逃げて来たぺトロだからでしょう。「天使」は(袖の下を渡された)番兵だと考えれば、古代のこと、何の不思議もない、極めて現実的な話ですが、天使の真偽はどちらでもよくて、大したことではないと思います。
どう考えても、ヤコブが殺されたことの方が遥かに重大です。なのに、「ヤコブを剣で殺した」(2節)、これだけで、後は全く触れられていません。詳しいことを知っていたはずのぺトロも自らの「脱獄記」を事細かに語るばかりで、ヤコブの殉教の死については一切語っていません。
それで、「主が救い出してくださったのだ」(11節)・「迫害の中でも、神は教会を守り導いてくださっているのだ」等と言われても、これらのこと自体を否定するものではなりませんが、やっぱり空々しく思えます。
それと、ステファノ殺害に続く迫害の際には、ユダヤ教と良好な関係にあったぺトロたち使徒グループは全くの無傷でしたが、今回の(アグリッパ王の親ファリサイ派政策の一貫としての)迫害では教会の指導者、使徒の一人ヤコブが殺され、ペトロは逃亡者となり「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言い残してどこかに行ってしまいます(17節)。
このヤコブ(イエスの弟)がペトロにかわってエルサレム教会の中心人物になります。ヤコブはファリサイ派には大変評判がよく、だからこの時も無事で、エルサレム教会はファリサイ派と共存して行くことになります。
世に対して動くのか、世に動かされるのか、このように世にあって変わって行く教会において、ヤコブの死のような「不都合になった事実」に触れる人はいなくなって行くのでしょうか・・・。
私はそんなことはないと思います。今日の箇所では、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に集まって祈っていた人々、この人たちはヤコブを思っていた、ヤコブの死に向き合っていたと考えています。
自分たちの手の届かない所で、知らない内にだったかもしれません、ヤコブが殺された。この到底受け止め切れない事実に向き合おうとする時、世にあっては小さく、弱く、力の無い自分たちの現実をまず直視しなければならなくなったはずです。そして、このままではきっとぺトロも殺されるに違いない。でも自分たちには何も出来ない。何の力もない。それでも・・・。そこから祈りが“生じた”、「どうか神様・・・」と祈っていた。
そこにぺトロがひょっこり脱獄囚然として(実際脱獄囚なのですが)やって来たものですから俄に信じられなかったのも無理はないです。この人たちを不信仰等というのは違います。
世にあって、世に動かされて、指導的立場にある人たちが入れ替わったりすることによって、それがどのようなかわり方であっても、このような人たちによって教会は教会であり続ける。神に守られ導かれて今の私たちにもつながっているのだと思います。
2024. 7. 14 聖霊降臨節第9主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。
(使徒言行録27章34節)
訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(使徒言行録28章30~31節)
「神の約束を信じて」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。
(使徒言行録27章34節)
訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(使徒言行録28章30~31節)
「神の約束を信じて」 深見 祥弘
この夏から一年間、新島襄ゆかりの教会を巡るスタンプラリーが行われます。これは来年、同志社が創立150周年を迎えるにあたり企画されました。お声がけをいただきわたしたちの教会も、スタンプラリーの訪問先に
加えていただきました。この企画では、教会の礼拝に出席することを勧めてくださっています。訪問くださるときには、あらかじめ連絡をいただくことになっています。訪問の方がおられるときにはお伝えいたしますので、歓迎の心をもってお迎えください。
今朝のみ言葉は、使徒言行録27章33~44節です。ここには、パウロのローマに向けての旅(主には船旅)の様子が書かれています。船旅というと優雅な旅を思いますが、パウロたちのそれは、暴風によって難破をも経験する苦難の旅でありました。しかし主の守りと導きをいただいてローマに到着することができました。ここでは、主に忠実である者は、主の励ましをいただき、与えられた務めを果すことができると告げています。
パウロは第三伝道旅行の後、伝道報告と献金を届けるためにエルサレムを訪れました。その際彼は、神殿を汚したとの誤った訴えによって暴動が起こり、捕らえられました。留置場にいた時、主がパウロに語りかけました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、
ローマでも証ししなければならない。」(23:11)その後パウロは総督フェリクスのいるカイサリアに移送され2年間の拘束を受けましたが、後任の総督フェストゥスが着任すると、「私は皇帝に上訴します。」と伝えました。パウロは、ローマの市民権をもち、ローマにおいて皇帝の裁判を受ける権利を有していたのです。彼は、与えられていた権利を用い、イエス・キリストの十字架と復活の福音(正しい者も正しくない者にもやがて復活するという希望)をローマに伝えるために、皇帝への上訴を申し出たのでした。
カイサリアからローマに至る旅は、聖書地図 9 パウロのローマへの旅を御覧ください。拡大聖書をお持ちの方は、後ろに入れております。
イタリア行きが決まると、パウロと数名の囚人は、皇帝直属部隊・アウグストゥス隊の百人隊長ユリウスに引き渡されました。パウロたちは、まず小アジアの沿岸を航行する小型船に乗り、カイサリアからシドン、キプロス島の東方を北上し、キリキア州、パンフィリア州の沖を通ってミラに入港しました。そこで彼らは、イタリア行きの大型船に乗り換えました。この船はアレクサンドリアの船で、276名の人と穀物を乗せていました。エジプトは穀倉地帯で、アレクサンドリアからイタリアへ穀物を運ぶ船が行き来し、ミラはその中継港であったのです。
さて地中海は、9月中旬から暴風のため航海に注意を要するようになり、11月~3月初旬までは航海のできない季節となります。イタリア行きの大型船はミラを出港すると、強風に悩まされながらクニドス港にきました。その後も強風のため西に進むことができず、南下してクレタ島の東端サルモネ岬を回り、「良い港」と呼ばれる港に錨を降ろしました。その時すでに「断食日」(9月末から10月)が過ぎていました。パウロは「この航海は積み荷や船体ばかりではなく、私たち自身にも危険と多大な損失をもたらすことになります。」(27:10)と言って、出港をやめるように話しました。しかし船長や船主が、この港は冬を越すのに適さないので西に65キロのフェニクスまで行くことを主張し、出港しました。はじめは、穏やかな南風が吹いていましたので数時間で到着のはずでしたが、やがて「エウラキロン」と呼ばれる暴風に襲われました。カウダという小島の島陰に入りましたが、暴風はおさまらず、船は漂流をはじめました。人々は、積み荷の一部や船具を海に捨てて船が沈まないようにし、以来14日間、彼らは太陽も星も見えず、自分たちの位置もわからないまま漂流を続けました。
パウロは失意と絶望の中にいた人々に語りました。「神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」(27:22~24) 船はアドリア海を漂流し、14日目の夜、船員たちは、陸地に近づいていることに気づきました。夜が明けるとパウロは一同に食事をするよう勧めました。「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(27:34) 276名の人は、十分に食事をし、元気を回復すると座礁を避けるために、残りの穀物を海に捨てました。船は砂浜のある入り江を見つけ、帆を上げて砂浜に向って進みました。しかしその手前の浅瀬に船を乗り上げで座礁し、船尾に激しい波を受けて船は壊れてしまいました。パウロは、泳げる者は飛び込んで岸に泳ぎつくように、泳げない者は、板切れや船員につかまって岸に向うように命じました。
彼らが到着したのは、マルタ島でした。一行は、そこで冬を越し、春を迎え航海が再開されると別の船に乗ってシチリア島のシラクサ、イタリア半島南西端レギオンを経てプテオリに入港、そこからは陸路アッピア街道を北上しローマに到着いたしました。
入港したプテオリの町には、キリスト者がいて、パウロは7日間交わりをもちました。またローマのキリスト者たちが迎えにきてくれました。ローマでは、裁判が始まるまで個人で借りた家にいて、番兵の監視下にありましたが、ある程度の自由を認められました。パウロは、まずローマに住むユダヤ人の指導者たちを住まいに招き、自分がローマに来ることになった経緯を話しました。また大勢のユダヤ人たちが来訪したので、神の国について、またイエスについて、朝から晩まで説明を続けました。
これによって少数ではありましたが、イエス・キリストを信じる者が与えられました。このようにして2年間、パウロは自分で借りた家に住み、訪問する者を迎え入れ、自由に神の国を宣べ伝え、イエス・キリストについて教えを続けたのでした。
説教題を「神の約束を信じて」といたしました。使徒言行録は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)この言葉が、どのように使徒たちを通して実現したのか、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)この言葉がどのようにパウロを通して実現したのかを書いています。幾多の困難にあっても、主の言葉に対する使徒やパウロの信仰がそれを可能としていることを知るのです。そしてこれは、わたしたちにも引き継がれています。「訪問する者はだれかれなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」これが、わたしたちに託されている務めです。そして、主がどのようなときもわたしたちを守ってくださる。これがわたしたちに与えられている信仰なのです。
2024. 7. 7 聖霊降臨節第8主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。
(使徒言行録24章15節)
「復活するという希望」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。 (使徒言行録24章15節)
「復活するという希望」 深見 祥弘
先週1日(月)米原市で大雨による土砂崩れが発生し、市は127世帯313人に対し「緊急安全確保」を発令しました。全国では雨が降らず高温となり
農作物に被害がでている地域もあれば、豪雨による被害がでている地域もあるなど、かたよりがみられます。イエスは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)と教えられましたが、なかなかそのようにはなりません。
今朝のみ言葉は、使徒言行録24章10~21節です。ここには、ローマ総督フェリクスに対するパウロの弁明が記されています。この弁明に至るまでのことを、お話します。パウロは、第三伝道旅行(主にアジア州エフェソへの伝道)を終えると、各教会からの献金を携えてエルサレムに来ました。パウロはエルサレム教会を訪れ、伝道報告をいたしました。教会の長老たちは、パウロから異邦人伝道の成果を聞き、神を讃美しました。しかし同時に長老たちは、パウロに関するあるうわさを心配していました。それは、パウロが異邦人社会に暮らすユダヤ人に対し、律法は守らなくてもよいと教えているというものでした。
先に行われたエルサレムでの使徒会議(15章)おいて、異邦人キリスト者は割礼を受ける必要がないこと、律法という重荷を負ないことを決議しました。ただしユダヤ人キリスト者の心情を思い、異邦人キリスト者は偶像にささげた肉を食べることはせず、みだらな行為をさけることを確認しました。
長老たちは、パウロに関するうわさが偽りであることを示すために、彼に「ナジル人の誓願」に協力するよう求めました。この時、エルサレム教会の4名が誓願を立てていましたが、誓願期間中に儀式上の汚れを犯し、神殿で7日間清めの儀式を受けることになっていました。長老たちはパウロに対しこの清めの儀式に参加しその費用を負担することで、彼が律法に忠実であることを示すようにと提案しました。パウロは、この提案を受け入れ、4名の誓願者と共に清めの儀式に臨みました。
さてエフェソから来たユダヤ人が、神殿の内庭(イスラエル男子の庭)にいるパウロを見、また同じ内庭にいた4人の誓願者の一人をトロフィモ(エフェソの異邦人キリスト者)と見間違いました。エフェソから来たユダヤ人は、パウロが異邦人をイスラエル男子の庭に連れ込んだと訴え、騒ぎとなりました。治安を司るローマ軍の千人隊長は、パウロを兵営に連行しましたが、パウロが人々に弁明をしたいと願ったのでそれを許しました。しかし、人々の怒りはさらに激しさを増しました。ヘブライ語でなされるパウロの弁明も人々の怒りの理由も、千人隊長には理解できず、パウロを再び兵営の中に入れ、鞭で打って理由を知ろうとしました。その際パウロが「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」(22:25)「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」(22:28)と言ったので、千人隊長は驚き、正規の手続きをとることにしました。
千人隊長は、ユダヤ人たちの訴えがユダヤの宗教問題であったので、祭司長たちに最高法院の招集を命じ、裁判を行わせました。その席でパウロは「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」(23:6)と議員たちに語りました。最高法院は、多数派で復活を否定するサドカイ派の議員と、少数派で復活を認めるファリサイ派の議員により構成されていました。パウロが、死者の復活を理由に裁判にかけられていると発言したことで、法廷では両派による神学論争が起こり大混乱となりました。「(パウロが)彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配」(23:10)するほどの状態になり、千人隊長はパウロを兵営に保護いたしました。夜、パウロは主の言葉を聞きました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」(23:11)
千人隊長は、暗殺集団がパウロを狙っているとの知らせを聞きました。そのため千人隊長は、より警備のしやすい、総督フェリクスのいるカイサリアにパウロを護送することにしました。
パウロがカイサリアに到着して5日後、大祭司アナニアはユダヤ教の長老数名と弁護士テルティロを伴い訴え出ました。「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。」(24:5~6) この訴えに対しパウロは総督に、自分がエルサレムに来たのは「援助金を渡すため、また供え物を献げるため」であったと言いました。すなわちこの間、わずか12日であり(7日間の清めの期間とエルサレム~カイサリア護送の5日間)、この短期間に騒動を計画し実行するなどできないこと、そしてエフェソからエルサレムに来たユダヤ人が誤解し、群衆を先導して騒動を起こしたと弁明しました。さらに、大祭司たちは、わたしを『ユダヤ人の分派』の主謀者と訴えているが、イエス・キリストの道が先祖の神に仕え、律法や預言者たちの書いていることを全部信じるものであるので、訴えている者たちと同じ信仰であること、「復活」についてもユダヤ人の中に信じる者もいることを話しました。
神殿での騒動は、エフェソから来たユダヤ人たちの誤解によって起こったことであり、最高法院での混乱は死者の復活の問題についてであって、訴訟の対象になるようなことではないと弁明したのでした。
説教題を「復活するという希望」としました。パウロの総督フェリクスに対する弁明の中の「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」との言葉からとりました。先ほど、サドカイ派は復活を否定し、ファリサイ派は復活を信じていると話しました。
そのファリサイ派は、正しい者の復活、すなわち神を信じ、律法と預言書を忠実に行う正しい者が、復活し救われると考えていました。これに対してパウロは、正しい者だけでなく正しくない者も復活するという希望を抱いていると述べています。それは、ナザレ人イエス・キリストの十字架の贖いと復活による恵みによって、その希望を抱くことができるのです。イエスは、正しくない者の救いのために十字架に架かられたからです。
パウロは、総督フェリクスの後任、総督フェストゥスが就任すると「私は皇帝に上訴します」と宣言しました。エルサレムの兵営にいた時、主が現れ「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」と言われたことを神のご計画と確信したのです。彼は多くの苦難を経験する中でもこのように守られてきたことは、イエス・キリストの十字架と復活の福音(正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望)をエルサレムからローマに届けるためであったと確信したのです。かつてイエスは「父は正しい者にも正しくない者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる。」と教えられましたが、その太陽と雨の恵みとは、すべての人が抱くことをゆるされる復活するという希望のことであったのです。
伝道者パウロは、ここにいるわたしたちもイエス・キリストの十字架と復活の恵みより復活の希望を抱くことができると伝えています。