W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2024. 9.29 聖霊降臨節第20主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
目覚めた日々は大空の光のように輝き
多くのものの救いとなった人々はとこしえに星と輝く。
(ダニエル書12章3節)
「星と輝く人々」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
目覚めた日々は大空の光のように輝き 多くのものの救いとなった人々はとこしえに星と輝く。
(ダニエル書12章3節)
「星と輝く人々」 深見祥弘
2024. 9.22 聖霊降臨節第19 主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。
(ヨハネによる福音書10章37~38節)
「わたしは神の子である」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。
(ヨハネによる福音書10章37~38節)
「わたしは神の子である」 深見 祥弘
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書10章31~42節です。10章には、「わたし(イエス)は良い羊飼いである」をテーマに、イエスがユダヤ人たち(祭司・律法学者・ファリサイ派の人々)になされた教えが記されています。
イエスは彼らにこう教えました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。・・・わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(14~18) イエスは、ご自分が父なる神の子であること、父より受けた掟に従い羊のために命を捨てるが、再び命を受けることを教えられました。
このイエスの教えは、ユダヤ人たちの間に対立を生じさせました。多くのユダヤ人は、「彼は悪霊に取りつかれ、気が変になっている。」(20)と言いました。またほかの者たちは、「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。(イエスは、神が愛する神の子ではないか。) 悪霊に盲人の目が開けられようか。」(21)と言いました。
そのころ、エルサレムで「神殿奉献記念祭」(ハヌカ)が行われました。BC168年、エルサレムはシリア王アンティオコス四世に侵略され、彼は、この地からユダヤ教を根絶するための手段を講じました。安息日や祝祭日をまもること、また神殿にいけにえを捧げることを禁止したのです。さらに同年12月(キスレウの月)15日、エルサレム神殿にはゼウスの祭壇が設けられ、豚肉がささげられました。人々は豚肉をたべることを強制され、従わなければ死刑に処せられました。そうしたことに抗して、祭司マタティアが立ち上がります。マタティアは亡くなりますが、息子ユダ(あだ名マカバイ、盾の意)が「マカバイ戦争」に勝利し神殿を奪還、BC165年12月15日(キスレウの月)神殿を清めて記念礼拝をささげました。以来、この出来事を記念してハヌカ(奉献)の祭りを祝ってきました。
この神殿奉献記念祭の日、イエスが神殿のソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」彼らは意見の別れる「イエスは何者」との問いに決着をつけようとします。
この問いにイエスが「メシアだ」と答えれば、神を冒瀆する者として、石で打ち殺すことになります。律法に「神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。」(レビ記24:15~16)とあるからです。ユダヤ人たちは、イエスが父なる神の子と称していることを冒瀆と考え、神殿からイエスを排除し清めようとしたのです。
これに対し、イエスはこう答えました。わたしは神の子であると言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業を見ても、あなたたちは信じない。それは、あなたがたがわたしの羊ではないからである。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」ここでイエスは、ユダヤ人たちが神殿に神以外のものを持ち込み、神の子を排除しようとしていることを指摘されたのでした。
これを聞いたユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げました。「また」とは、8章59節に書かれていることを指しています。イエスは、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」と問うと、彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」と答えました。この問いにイエスは律法を引用して答えます。それは詩編82編6節「あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか」と書かれていることです。かつて神の務めに当たる人や神の言葉を受け入れた人たちは、自分たちを「神々・いと高き方の子ら」と言っていた。人々は、人間なのに自らを神のようなものとしていたが、今あなたがたも、同様の意識を持っていて、神殿を汚していると指摘されます。そのうえで、イエスは、父なる神から聖なる者とされて世に遣わされたのであるから、「わたしが神の子である」と言ったからといって、どうして「神を冒瀆している」と言うのかと問うています。あなたたちは、今「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。」と言った、「わたしを信じなくてもよい、その業を信じなさい。」そうすれば、その業によってわたしの内に父なる神がおられることを知り悟るだろうと言われました。
イエスの「善い業」とは、次のようなことです。ヨハネ福音書は、イエスは「わたしは命のパンである」(6:35)と言って人々を身元に招き養い、「わたしは世の光である」(8:12)と言って人々の先行きを示し、「わたしは羊の門である」(10:7)と言って新しい世界へと導き入れ、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)と言って主との関係を結びます。いずれの業も「わたしは」と言って人々に対する神の愛の先行を認めることができます。
そしてイエスの善い業の最大のものは、「わたしは羊のために命を捨てる」(10:15)であります。イエスの十字架と復活の業が、人々の罪の赦しと新生と永遠の命のためと信じることで、イエスを神の子と信じることができるのです。イエスの十字架刑の責任者であったローマ軍の百人隊長が、十字架のイエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)と告白したことが思い起こされます。
父なる神は、自らを神のごとき存在とする人々によって苦しんでいる人々や世界を見て、神の子イエスをこの世界に、そして苦しむ人々のところに遣わしてくださいました。イエスは「わたしは神の子である」と宣言するとともに、命のパンとして、世の光として、羊の門として、そして良い羊飼いとして人々に仕え、その愛の業によって自らが神の子・メシアであると証しされました。しかし、頑なな人々によって、イエスが「悪霊に取りつかれた者」とされたとき、父なる神は我が子イエスを十字架に架けて、彼らをも含めてすべての人々の罪を贖い、イエスの復活によって人々が新しく生きる道を開いてくださったのです。
「わたしは神の子である」、この宣言により、わたしたちは神の愛を知り、「信じること」(神との関係の中に入ること)へと導きいれていただけるのです。わたしたちは、神の愛に満ちる良い羊飼いに養われ、守り導かれるまことに幸いな羊の群れであります。
2024. 9.15 聖霊降臨節第18 主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウルはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。 (使徒言行録12章24~25節)
「バルナバ、パウロ、マルコ」 仁村真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
(使徒言行録12章24〜25節)
「バルナバ、パウロ、マルコ」 仁村 真司
今日の箇所、12章25節の表記に従えば「バルナバ、サウロ、マルコと呼ばれるヨハネ」となるのですが、それぞれのよく知られている方の呼び名・
名前を採って説教題は「バルナバ、パウロ、マルコ」としました。
バルナバは厳密には「バルナバと呼ばれるヨセフ」です。「・・・使徒たちからバルナバ―『慰めの子』という意味 ―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ」(使徒言行録4章36節)とあります。
パウロはずっと「サウロと呼ばれるパウロ」であり「パウロと呼ばれるサウロ」でした。ヘブライ語系の「サウロ(サウル)」とギリシア語系の「パウロ」、元々二つの名前を持っていたからです。
1 )
さて、次に「マルコ」という呼び名・・・ではなく、マルコと呼ばれるヨハネという人物についてです。
マルコと呼ばれるヨハネは伝統的に最初の福音書の著者とされて来ました。それで「マルコによる福音書」というのですが、最近の聖書学では、このマルコがマルコ福音書の著者であることを否定する見解が主流となっています。私はずっとそれを鵜呑みにして来たのですが、近頃はやっぱりこのマルコが最初に福音書を書いた人だろうと考えています。
バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれ
るヨハネを連れて帰って行った。 (12章25節)
聖霊により送り出されていたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、
そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会
堂で神の言葉を告げ知らせた。二人(バルナバとサウロ)は、ヨハネ(マルコ)を助手として連れていた。 (13章4〜5節)
このようにバルナバとパウロの活動報告と共に、何のことわりもなく、おもむろにマルコの動向が記されていることから、使徒言行録が著された1世紀後半(80年頃?)にはマルコと呼ばれるヨハネという人物は「福音書」の著者として広く知られていたと考えて良いと思います。
ただ、バルナバとパウロについて行った当時のマルコは若く、勿論福音書もまだ書いていません。バルナバとパウロについて行くことになった経緯・背景については不明ですが、手掛かりになりそうな記述があります。
・・・ペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。
そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 (12章12節)
この記述からしてマルコの母マリアは最初期のエルサレム教会の有力な支持者であったと考えられます。ということは、イエスと面識があった可能性は高いですし、マルコも幼い頃イエスに会っていたかもしれません。
それに周りにはイエスの思い出を語る大人たちが沢山いたことでしょう。
そうして青年になったマルコが、後に記したマルコ福音書の内容から推し量れば、エルサレム教会の指導者となったペトロたちが語る「イエス・キリスト」に違和感を覚え批判的になったのか、そこまでではなくとも迷ったり悩んだりするようになっていたとしても不思議ではないと思います。
そんな時にバルナバとパウロがエルサレムにやって来た。(コロサイの信徒への手紙4章10節には「バルナバのいとこマルコ」とあります。)それでバルナバが連れて行くことにしたのか、マルコがついて行ったのか・・・。
2)
このようにしてかは定かではなくとも、ともかくバルナバとパウロに同行したマルコですが、「第一回伝道旅行」の途中で帰ってしまいます。
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
(13章13節)
このマルコの行動に端を発してバルナバとパウロの関係に異変が生じることになります。「第二回伝道旅行」に際してのことです。
・・・バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に
行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見
が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマ
ルコを連れてキプロス島へ向かって輸出したが、一方、パウロはシラスを
選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。(15章37~40節)
かつて、元迫害者ということもあって、教会から距離をとらざるを得なかったパウロを捜し出してアンティオキア教会に迎え入れたのはバルナバです。そして二人はそこで丸一年一緒に活動しています(11章25・26節)。
そんな盟友関係とも言える二人が激しく衝突し、結局別行動をとるに至る
のですが、まだほんの“駆け出し”のマルコー人を「連れて行きたい、否連れて行くべきではない」がどうしてこんな大事になったのでしょうか。
パウロはマルコを「宣教に一緒に行かなかったような者」と言っていますが、マルコからすれば「パウロの宣教」にはついて行かない、乃至ついて行くべきではないということだった、それで帰ってしまったのでしょう。
それをバルナバはわかっていて、でももう一度機会を与えようとした。
パウロとマルコが協調してくれればという気持ちもあったのかもしません。
ですが、パウロは自分に批判的なマルコを頑なに拒絶したのだと思います。
3)
・・・わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけ
られたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
(コリントの信徒への手紙一2章2節)
・・・わたしが告げ知らせ福音は、人によるものではありません。わたしは
この福音を人から・・・教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によ
って知らされたのです。(ガラテヤの信徒への手紙1章11・12節)
イエス・キリストの十字架の死(と復活)以外は(つまり、この世を生きたイ
エスを)知る必要はない、自分が宣べ伝えるイエス・キリストは人(例えばペトロたちが語ること、マルコが記す福音書等)から伝えられるこの世でのイエスとは関係ない、違う・・・。パウロはそう言っている訳です。
このようなパウロと、この世の現実を人々と共に生きたイエスの姿・思い出を伝える福音書を後に「発明」することになるマルコが認め合い、一緒に伝道・宣教するのはやはり無理なことだったのでしょう。
それにしてもパウロとマルコ、全く異なる個性の二人を見い出し、それぞれと共に活動したバルナバの果たした役割は大きいと思います。
パウロとマルコが相容れなかったのはパウロが伝える「理念としてのキリスト」とマルコが伝える「この世を生きたイエス」が決して結び付かないからです。しかしながら新約聖書において、パウロに代表される「理念としてキリスト」とマルコに代表される「この世を生きたイエス」は結び付いています。そして、私たちが思い、求め、従おうとするイエス・キリストにおいて結び付きます。
材質も色もまったく違うパウロとマルコを縦糸として、それぞれの風合いも色合いもそこなわないようにバルナバが横糸となって(どっちが縦でも横でもいいのですが)織り上がったのが新約聖書でありキリスト教・・・そんなイメージも湧いてきます。
バルナバとパウロ、そしてマルコ。この三人の関わりはマルコを巡るバルナバとパウロの決別をもって結末を迎えたのではないと私は考えます。
三人の思いがけない出会い、邂逅は、今につながる、私たちにもつながっているクリスチャンの道筋の一つの重要な起点、基点と言えるでしょう。
2024. 9.8 聖霊降臨節第17 主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 (ペトロの手紙第一2章16節)
「 神の僕として生きる 」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 (ペトロの手紙第一2章16節)
「 神の僕として生きる 」 深見 祥弘
この説教を作っていた時のことです。疲れたのでネットでニュースを読もうとしたところ画面が変わり、異常を告げる警告音とともに「ウイルスに感染したので、画面に表示しているところに電話をするように。コンピュターを切らないで。」とのアナウンスが流れました。はじめてのことで動転したこと、宣子が外出していて相談できなかったこと、なにより説教原稿やさまざまなデーターが消えたり、流出してしまうのではと思い電話をしてしまいました。実際はウイルスに感染していませんでした。後で宣子から、電話をしてはいけない、すぐに切らなければならないと聞きました。電話に出た人物(日本語を話す外国人?)が、「あなたのコンピュターはウイルスが入り込み壊されている状態である、さらにどんどんウイルスが増殖している」と言い、それを証しするかのような画面を次々に示されて、「ああ、大変なことになった」と思いました。電話の人にさんざん脅された後、「でも大丈夫です。私がこちらで操作して、もとにもどしてあげますから。」と言われ、ほんのちょっと安心したところに、「費用がかかります。あなたはそのコンピュターを使ってネットで物を買ったり支払いをしたりしているか」と尋ねられ、「していません」と答えると、「それならば近くのコンビニにいってアップルカード5万5千円分を買いに行ってください。携帯電話は絶対に切らないで、繋いだままにしておいてください。」と言われました。ここではじめて、これは詐欺ではないかと思い、すぐに電話を切りました。そこに宣子が帰ってきたので話したところ、先ほどのことを聞きました。コンピュターを切るともとの状態に戻りました。詐欺を仕掛けた人には「その自由を、悪を行う口実とせず、・・・すべての人を敬いなさい」(聖書協会共同訳)と言いたい、そしてこの悔しさを無駄にしてなるものかと、この説教の枕にしました。
今朝のみ言葉は、ペトロの手紙第一です。この手紙は、ローマ帝国内の諸教会に宛てて書かれました。教会から教会へと回覧することから、公同書簡と言われます。またこの手紙には、使徒ペトロの名がつけられていますが、ペトロより後の時代の教会指導者によって書かれました。初代教皇ペトロの名をつけることで、大切な手紙であることを示そうとしているのです。 これが書かれたのは、紀元90年代、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世で、教会はローマ政府より迫害を受けていました。おそらくは、異教徒たちの都、迫害者たちの都ローマで書かれたと考えられます。教会指導者は、緊迫した状況の中、諸教会の信徒たちを思い、迫害や試練にあっても、天にまことの故郷を持つ者として信仰生活を全うするよう励ますことを目的として、これを書いたのです。
み言葉は、2章11~25節です。まず教会指導者は、クリスチャンが世においては「旅人」、「仮住まいの身」、本来は天に属する者、神の国に国籍を有する者であると述べています。それゆえにクリスチャンは、世のいかなるものにも束縛されない自由人であり、その自由を用い自らの意志で「神の僕」となり行動しなさいと勧めをしています。先週の礼拝で、自由について学びをいたしました。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8章32節)、「真理」とはイエス・キリストのこと、自由とは罪からの解放のことです。父なる神は、偽りの自由を求めて神の家を離れ、罪の奴隷になっている人々を見て憐れに思い、御子イエスを遣わし十字架によって罪を赦し、御元に連れ戻されます。また人々が神の家においてイエスの言葉に耳を傾け、罪の奴隷から神の子とされ、本当の自由が与えられることを願っておられるのです。
そのことを述べたあと、教会指導者は、四つのこと(「信仰生活の基本」、「この世の制度について」「信仰生活の目標」、そして「僕として生きるクリスチャンに対して」)を書いています。
まず「信仰生活の基本」についてです。一つ目は、「魂に戦いを挑む肉の欲を避ける」ことです。「魂」とは、神と関わりをもつ賜物のことで、イエスを救い主として信じる信仰によって与えられている賜物です。対して「肉の欲」とは、自分本位に生きることです。クリスチャンは、神を求める思いに戦いを挑んでくる、肉の欲を避けなければなりません。二つ目は、「異教徒の間で立派に生活」するとのことです。自分本位に生きる事が自由であると考える人々の多い世にあって、神の賜物である自由を用い、自らの意志で神を愛し、人を愛する生き方をするよう勧めています。「信仰生活の基本」とは、自分本位の生き方を退け、与えられた自由を用い、自らすすんで神を愛し人を愛することです。
次に「この世の制度について」です。13節に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」とあります。それは、統治のために立てられている制度(皇帝や総督)で、これに従いなさいと教えています。この時、教会はローマ皇帝の命令によって迫害を受けていました。皇帝の命令を監督し執行するのは、各地に派遣された総督たちです。これを読んだクリスチャンたちは、驚いたことだと思います。今わたしたちが読んでも、抵抗感があります。でもここで教えられていることは、クリスチャンは天に国籍を持つものであるので、この世のあらゆる制度から自由である。決して服従などはしない。しかし皇帝や総督に従うことが、神の御心であると受け止め、自らの自由な意志によって「主にために」制度に従うことを勧めています。
さらに「信仰生活の目標」について述べています。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(17)まず「すべての人を敬う」この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内に6千万人の奴隷がいました。この人々を敬うことが目標です。「兄弟を愛し」、迫害下の教会が互いに助け合い愛し合うこと、そして「神を畏れ」「皇帝を敬う」ことが目標です。
最後に、「誰かの召し使いとして生きるクリスチャンに対して」述べています。これは18~25節に書かれています。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」(18)この教えは、迫害する皇帝や総督に従えと教えられているのと同じです。不当な苦しみを受けることになっても、善を行い、それを耐え忍ぶことが、神の御心に適うことだというのです。召し使いであるクリスチャンにもキリストより自由が与えられ、彼らの国籍は天の国にあります。それゆえに、世にあっては与えられた自由を用い、自分からすすんで主人に仕えるようにしなさい。クリスチャンである彼らはもはや主人の召し使いではなく、神の僕とされているからです。模範とすべきは、苦難と十字架のキリストです。キリストは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しく裁きをなさる方(父なる神)にお任せになられました。神は僕として生きるクリスチャンを義とし、その傷をいやし、魂の牧者であり監督者のもとで幸いを得るようにしてくださるのです。手紙の著者は、召し使いたちに、与えられた自由を、どのような主人であっても自らすすんで神の僕として従いなさいと勧めています。
ローマの社会では、クリスチャンを悪しき教えを伝播する者と見ていました。しかしやがて世の人々は、自由によって、神の僕として生きることを決断したクリスチャンを好意的に見るようになり、神をあがめるようになったのです。まことの自由を与えられた者たちは、その自由を用いて神の僕として生きるとき、世のさまざまな制約に苦しむ人々を解放する、神の業に参与する者とされるのです。
2024. 9.1 聖霊降臨節第16 主日礼拝
< 今 週 の 聖 句 >
真理はあなたたちを自由にする。
(ヨハネによる福音書8章32節)
「自由とは何か」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネによる福音書8章32節)
「自由とは何か」 深見 祥弘
今日は、礼拝後に恵老会を行います。例年恵老会は、6月第2日曜日におこなってきましたが、今年は教会の組織改編を行った関係で、9月の実施となりました。
旧約学者・松田明三郎(あけみろう、1894~1975)さんの「年輪」という詩があります。「私は樹木の年輪をみて わが生涯の年輪を思う。幸福な人生の春にはのびのびと成長し、きびしい試練の冬にはちぢこまった痕を残し、年ごとに層を加え、数えてみれば六十にあまる同心の円輪である。少年の日、水に溺れようとして友に助けられ、青年の頃胸を病んで 人生に望みを失った時、キリストによって救われた。戦いのはげしい時には、爆弾や焼夷弾が雨のように降る都心に住んでいたが、奇跡的に生き残された。ああ主よ!私の時はあなたのみ手にあります。私はかつて無価値な一本の苗木にすぎなかった。だが今、いささか価値のある僕であるとするならば、それは全く 年輪を重ねることをゆるして下さった 主の恩寵の故なのである。」(松田明三郎「詩集 星を動かす少女」福永書店)
わたしたちもまた、松田さんと同様に、事故や病い、戦争などさまざまな出来事の中で、友に助けられたり、キリストに救われたりしながら、生涯の年輪を重ねてきました。一本の苗木であるわたしたちが、生きる場を備えられ、このように年輪を重ねることができたのは、ただ主の恩寵ということができるでしょう。まさに「恵老」であります。
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書8章31~38節です。この箇所は、7章からはじまるイエスとユダヤ人たち(祭司・律法学者・ファリサイ派の人々)との論争記事の一つです。そして論争記事は、ユダヤ人たちがイエスに石を投げつけようとし、イエスが彼らから逃れるところ(8:59)で終ります。
ここでイエスは、「御自分を信じたユダヤ人たち」に語りかけます。ユダヤ人の中には、イエスと対立論争する人々だけでなく、イエスを信じた人々もいました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(31~32)
イエスを信じたユダヤ人といっても、彼らの信仰は様々です。イエスはそうした人々に対して、本当の弟子と言えるのは「わたしの言葉にとどまる」人であると言われました。「とどまる」という言葉は、ヨハネ福音書の中にくり返し出てくる大切な言葉で、それは人々がイエスの言葉に根底から支えられている状態のことです。イエスの言葉にとどまるならば、「あなたたちは真理を知る」と言われます。その「真理」とはイエスのことで、イエスがどのような御方であるのかを知ることができるのです。そして「真理」は、「あなたたちを自由にする」と言われました。
これを聞いてイエスを信じたユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(33)と問いました。歴史的には、ユダヤ人はエジプトやバビロンにおいて奴隷でありましたし、イエスの時代、ユダヤはローマの属国となっていました。ここで彼らが言っているのは、外面的には奴隷となったことがあっても、内面的にはアブラハムの子孫として神の契約である律法を守り、信仰の自由を維持してきたことについてです。イエスは、お答えになられました。「あなたたちがアブラハムの子孫であることは、分っている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(37~38) イエスの父は天の神であり、子なるイエスは父なる神の言葉を語ります。対してユダヤ人の父はアブラハムであり、ユダヤ人はアブラハムやモーセから聞いた律法を行っています。そのことでユダヤ人は、イエスの語る言葉を聞かず、罪の奴隷となって神の家を離れ、イエスを殺そうとしています。奴隷は、生涯同じ家に仕えることはできず、売り買いされて主人の家を離れることになります。対してその家の子は、生涯その家の主人の子であり、家を離れることはありません。それゆえにイエスは、父なる神の子イエスの言葉にとどまって弟子としていただき、まことの自由を得る者となりなさいと勧めているのです。
説教題を「自由とは何か」といたしました。「自由」とは、罪からの解放のことです。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(34) 神はモーセによって十戒(律法)を与えました。それは人が律法を通して、自らの罪に気づくためです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で議とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20) ところが人は、自分の力で律法を守ることができ、自分の力で救いを獲得できると考えるようになりました。もはや神に寄り頼まなくても救いを得ることができる、かえって神の元にとどまることは煩わしく不自由であると考えるようになりました。ここに罪があります。父なる神は偽りの自由を求めて神のもとを離れ、今罪の奴隷となっている人々を見てイエスを遣わし、神の家に連れ戻そうとしておられます。また人々が神の家にとどまり、イエスの言葉を聞くことによって神の子とされ、本当の自由を得ることを望んでおられるのです。
注解書に、哲学者・内山節(たかし)さんの「樹の自由」という文が紹介されていました。要約するとこうなります。木は種の間は自由であるが、芽を出してしまえば、生涯そこから動くことができません。通常、私たちはそのような状態を「不自由」と呼びます。しかし木は、動かないからこそ、自分の回りに必要なものを呼び寄せ、自由に生きることを可能にしています。すなわち、豊かに実をつけることで鳥を呼び寄せ、たくさんの落葉は微生物を呼び寄せます。人間は自己の自由を得るために、他者の自由を犠牲にすることがあるのに、木は他者の自由があるからこそ自分も自由に生きることができるのです。
イエスは、ご自分の言葉にとどまるようにと勧めておられます。わたしたちがみ言葉に根を下ろすならば、本当の自由を得ることができると教えておられるのです。み言葉に根をおろす(とどまる)ならば、助けが必要な時には友が来てくれますし、イエス・キリストも御手を差し伸べてくださいます。イエス・キリストの元に身を寄せ、み言葉に耳を傾ける多くの者が、与えられた自由によって、罪の奴隷になっているわたしを助けてくれるのです。
わたしたちは、植えられたところに根を降ろし、いろいろなことを経験しながら、苗木の時から年輪を重ねてきました。その植えられたところの一つが、教会であります。時にわたしたちは悪しき力の誘惑によって、教会を離れることができたら、どんなに楽で自由なことかと考えることもあります。悪しき力は、わたしたちに偽りの自由を見せながら、イエスの言葉からわたしたちを引き離そうとしているのです。偽りの自由は、自分の自由のために、他者の自由を侵害し、神の救いと自由の計画を空しくします。わたしたちは今、恵老を覚え、教会につながることで刻んできた信仰と自由の年輪を、感謝して数えてみましょう。