「弱いときにこそ強い」(コリント信徒への手紙二12:1-10)
「弱い」。私たちは日頃の生活の中で、何度もこの言葉に出合います。体が弱い、気が弱い、メンタルが弱い……などなど。
電車に乗って車内広告を見てみても、やれ「〇カ月で英語が話せる」だの、「優良企業への転職」だの、「○○円稼ぐ方法」だの、人間の欲望を刺激する文言が並びます。私たちのもつ語学力や経済力の「弱さ」といった痛いところをしきりに突いてくるわけですね。私自身も経験がありますが、我々はどうも自らの弱さを受け入れようとしないときに、ついつい甘言に乗せられてしまうようです。
さて、今回の説教題は「弱いときにこそ強い」でした。
この聖書箇所はパウロの逆説的な「十字架の神学」の象徴的な部分の一つだと思います。力強く、次々と奇跡を起こすメシアとして人々から嘱望されたイエスは、磔刑という最も
惨たらしい方法で処刑されました。人々の救世主であることを望まれながら無力のうち
に亡くなったイエスを目の当たりにした群衆の失望は想像に難くありません。
しかし、パウロはその弱かったイエスの誇るのです。そう、第5節でパウロの誇った「このような人」とは主イエスのことなのでした。そして、同じ5節において、パウロ
は自身の弱さをも誇るのです。
弱さを誇るってどういうことなのでしょうね。例えば松下幸之助氏は、自身の体が弱か
ったから、自身が貧しかったから成功できた、といった旨の名言を残していますし、レオ
ナルド・ディカプリオ扮する『タイタニック』のジャック・ドーソンは「どんなカードが
配られても、それも人生」と言いました。両者とも、自身の健康や経済力の弱さを誇って
いるのです。こういった発言だけ切り取ると何やら自己啓発本みたいになってしまいそう
なので、ここまでにしておきますけど、案外その通りなのかと思います。
でも、松下幸之助は誰もが認める成功者ですし、ジャックはディカプリオです。そり
ゃ、そういう人ともなれば弱さくらい誇りにもできるだろうよ、ケッ、ってヘソを曲げた
くもなります。僕もです。
けれど、考えてみると当時のパウロだって、もはや地位も名誉も無い人間でした。かつ
てはテント職人だったという噂もあるようですが、少なくとも「律法をより遵守した者
が偉い」という当時のユダヤ社会で、「律法なしに」人を義とするイエスを信仰するパ
ウロの孤独感は察するに余りあります。今風に言うなら「年収が高い方が偉い」「より仕
事ができる方が偉い」という社会にコミットしきれない人々の孤独感にも通ずるものがあ
るでしょうね。
しかし、どれほど孤独でも人は生きなければならない。そんな時に何をより頼むのか。主イエスはこう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で
こそ十分に発揮されるのだ」(9節)。そして、パウロはそのキリストのために満足したと
記します。
孤独のうちにあるパウロは、十字架に磔られたイエスのみを誇りとして生きました。そ
れは、弱さでもって人間を贖いだしたという愛に満ちたイエスでした。
この贖いだされた人間とは何か。深見先生は、「ありのまま」という言葉を用いて説か
れましたけれど、これは、巷で流行っている「自分らしさ」とはワケが違うのだと思
います。
つまり、救いだされ、愛されたのは、何らかの属性を持った特定の人間ではなく、存在
論的な次元における人間。何かしらの条件をもつけることなく、存在そのものを許して
もらうという、まさに『アナと雪の女王』におけるレリゴー的な「ありのまま」であるはずなのです。
その愛とは、父なる神の義なる愛であり、イエスの体現された愛であり、先人達に受け
継がれた愛であります。世間から否定されるような自らの弱さを受け入れることは、非常
にタフで孤独なことです。しかし、その時に僕たちの存在そのものを許してくださる神を
信じられたなら、そしてそういう人に恵まれたなら、これに勝る幸いはないのだと思いま
す。けれど、やはり未だ信じることがきないのであれば、当座、僕に祈らせてください。