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執筆者の写真hachimankyoukai

5月13日 「水のある井戸を見つけた」



5月13日 「水のある井戸を見つけた」(創世記21章9節)

 突然ですが、僕の友人に、大学を卒業して東京・中野のキャバクラで働いていたという人がいます。彼は現在牧師をしているのですが、その道を志したのには、そのお店でのある出来事に一つの理由があったそうです。それは、酩酊したある男性客の独り言。「まあ、ここに来て、何が変わるってわけじゃないことは分かっているんですけどね」。

 つまり、その男性客は夜のお店のサービスによる快楽によって満足しているけれども、結局一人家に帰ったところで、どれほど孤独なことだろう。単純なことではないけれど、少なくとも快楽で満足させられても、心の孤独には変わりない。少なくともぼくの心を満たすものとは全く違う。ぼくの心を満たしてくれたのは快楽でなく、神様じゃないか……

 それに気づいたとき、彼は退職の意思を固め、牧師への道を踏み出したのだそうです。

 前フリが長くなりました。今回の聖書箇所は、アブラハムの側妻である女奴隷・ハガルが、本妻・サラの嫉妬を買ったところから始まります。それ故アブラハムの元を離れることになったハガル。そして、彼女とその息子イシュマエルが今にも渇き死にするかという瀬戸際に追い詰められた場面が描かれています。どれどれ、少し覗いてみましょう。

 喉の渇きに苦しみ泣きわめくイシュマエル、居たたまれなくなって息子から離れるハガル。そんな絶望的な状態の最中、神が御使いを通してハガルに語りかけます。

「恐れることはない。……私は必ずあの子を大きな国民とする」(創世記21:17)

そして、神はハガルの目を見開いたので、彼女は水のある井戸を見つけ、その井戸をイシュマエルに飲ませました。そのおかげで、彼は成長し、弓を射る者(猟師)となり、アラブ民族の祖と言われるまでになりましたとさ……

……なるほど、わからん。まず神様が目を見開いたので井戸を見つけたってどゆこと?助詞の使い方おかしくない?というか水を飲んだから弓使いになったとか急展開すぎるわ!というのが、率直な感想だと思います。

ただ、そこは聖書。ちゃんと仕込みがあります。まず、この井戸というのが只者ではないのです。そう、なんとこの井戸、神様がついているのです……

そもそもイシュマエルは、アブラハムと女奴隷ハガルの子どもです。彼は、神により永遠の契約を立てられたイサク(創世記17:19)と異なり、当時不妊であったサラが、アブラハムを慮って側妻に立てたハガルから生まれたという背景があります。つまり、神のご意思ではなく、人間関係のゴタゴタから生まれた子と言えるかもしれません。その出自ゆえに、パウロも彼について「肉によって生まれた[1]」というケッタイなもの言いをしているのです(ガラテヤ信徒への手紙4:23)。

方や、神に約束された子イサク。そして方や、人間の都合で生を受けたイシュマエル。

これでは、イシュマエルに立つ瀬が無いのは明らかですよね。

しかし、話はそれで終わりませんでした。実は神はアブラハムに伝えていたのです。「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。」(創世記21:13)

つまり、父なる神は「肉によって生まれた」イシュマエルを決して見捨てることなく、彼の生命を祝福されていたんですね。

そして、今回のクライマックスとなる21章17節において、神は御使いを通して遂にハガルに気づかせるのです。「恐れることはない。……わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。

ハガルの信仰のブレイクスルー(気付き)は、まさにこの箇所にあります。神は彼女の目を見開いたのです。そして彼女が見つけたのが、タイトルにある「水のある井戸」なのです。

神の祝福を受けた井戸、それは新約聖書の時代においては、イエス=キリストという永遠の命をたたえる井戸として現れます。(ヨハネによる福音書4:13-14)

単に喉の渇きを癒す井戸水を飲んでも、また喉は渇きます。しかし、永遠の命に至る水を飲んだ者は渇くことがありません。(この点においては、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』や、吉本隆明『マチウ書試論』にて鋭い指摘がなされていますが、ここでは割愛します)

その水を飲む条件とは、神の祝福が自身に与えられていることに気付き、それを素直に受け入れることなのだと思います。そして、そのトリガーは往々にして、自らが苦しいとき、病めるとき、貧しいときに、それとなく現れたりするものです。

でも、なかなか楽じゃないよなあ……というのが、正直なところです。もし、お一人で不安ならば、キャバクラで1000円のお水を飲む前に、近江八幡教会で僕たちと共に井戸の水にあずからせていただきませんか。

[1] 肉によってとは、霊性とは対照的に、人間の思惑や欲望、快楽に依るもの、という程度のニュアンスです。


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