6月3日「麦が実りました」(マタイによる福音書13章1節-9節)
タイトル通りです。麦が実りました……
イッシーです。幸運にも3回目の掲載となりましたので、簡単な自己紹介をさせていただきます。
イッシー、23歳男性、埼玉県出身で、今年から近江八幡市に移り住みました。何度か引っ越しを経験しているのですが、いずれも大阪・福岡といった支店都市の近郊に住んできたので、近江八幡のような農業地域で生活を送るのは初めてです。それだけに、辺り一面に広がる黄金色の麦畑が眼前に広がった時は感動したものです。
大都市での生活に疲れたら、ぜひ移住のご検討を。とても良いところですよ。
さて、この日の礼拝後、僕たちは東近江市の「止揚学園(しようがくえん)」という社会福祉施設を訪ねました。重度の知能障がいをもった人々が生活する学園で、名前を聞いた時は、てっきり「紫陽学園」だと思っていたのですが、Aufheben(アウフヘーベン)の「止揚」でした。
止揚とは、矛盾する対立概念を否定しながらも、双方をより高い段階へとすり合わせることで真理に至る道を追究するというのがおよその意味です(僕は弁証法哲学もヘーゲル体系も全く解さないですけれども)。
良い名前だと思いました。由来を調べてみると、知能に障がいをもった子どもたちと、障がいをもたない先生方がぶつかり合い、今までになかった新しい生き方が生まれる場にしたい、という思いがあったのだそうです。なるほど、先に申した止揚ですよね。
学園を訪れて気づいたのですが、知能障がいという極めてセンシティブなハンディキャップを持つ人々って、色々な意味で本当に気を遣われ、注意を払われる存在だと思うのです。例えば、彼ら彼女らを笑顔で受け入れ、明るく合唱したり、遊戯をするというような。誤解を恐れずに言えば、それは時にきれいごとに見えるかもしれない。嘘っぽく見えるかもしれない。でも、それは彼らを守り、一人の人間として存在を認め、愛するために、必ず死守しなければならないぎりぎりのラインのきれいごとだと思うのです。
このボーダーラインを守るために、それこそきれいごとでは済まないような様々なぶつかり合い、すなわち止揚があったであろうことを覚えます。それは、生徒と先生の間だけでなく、双方の心中の矛盾の内にもきっとあったことだと思うのです。僕はその止揚を続けて来られた止揚学園の皆様に心から敬意を持ちました。当日は、楽しい時間をありがとうございました。
さて、僕たちの生き方も、まったく止揚の連続です。聖書により与えられる御言葉と現実とは、常日頃より反発するように見えるともっぱらの噂であります。
「信仰し続けても、人生うまいこといかんし、何もええことないやん……」
「はぁ。せっかく頑張ってんのに、なんも結果がついてこん。俺って神にも見放されてるんやなぁ……」
あるあるですよね。多分、僕と同じくらいの年齢でこのブログを見てくれている人たちの99%はそんなことを考えたことがあるんじゃないかと勝手にお見受けします。
しかし、僕たちは思い出さなくてはいけません。そう、今日の聖書箇所である「種を蒔く人」のたとえ(マタイによる福音書13:1-9)です。
麦の種蒔きに出た人が種を蒔いたところ、ある種は道端に落ちて鳥に食べられ、ある種は土の少ないところに落ちて枯れ果て、ある種は茨の中に落ちたため生長できなかった。しかし、良い土地に蒔かれた種は、何倍もの実を結んだ……
この話は例えです。説教のとおり「種を蒔く人」はイエス様であり、「蒔かれた種」とは御言葉であり、道端や土の少ないところや茨といった不毛の土地は、僕たちの生涯を指しています。
確かに、僕たちの生涯においては、思わず頑なになってしまったり、世俗的・快楽的な誘惑に嵌ってしまって、真に善いものを素直に受け入れられないことが多々ありますよね。それでも、イエス様は僕たちがどのような不毛な状態にあっても、御言葉の種を蒔いていてくださる。近江八幡の一面に広がる麦畑を見ていると思うのです。本当は、種を蒔いてもロクに育たない土地なんて、誰も見向きはしないのではないのかと。
私たちは通常、しっかり実り、食糧になり得る麦や米のみを見ています。まあ聖書の中にも、悪い麦は火中に投げ込まれるなどと書かれているんですけれど、ともかく育たなかった種などは当然無価値ですし、普通目もくれないものです。
でも、イエス様は違った。今のままならば蒔かれた種を育てられそうもない、不毛の土地たる僕たちをしっかり気にされた上で、今回の御言葉(種)を蒔いてくださったのだと思うのです。
この御言葉による種は「何が宗教だ、俺は自分自身の力を信じているからそんなまやかし信じないね」というクールで実務的な人の上にも、そしてクリスチャンにも、平等に蒔かれています。これは当人の望む、望まないを問わず、必ず平等に蒔かれます。決して目に見える種ではないけれど、それを素直に受け入れ、育てられたならば、人間には想像もつかないほど救いの恵みをいただくことができるのではないかと思います。そして、その土地の土壌改良を任されているのは僕たち人間です。ではどうやったら土地を肥やせるのか?キーワードは、止揚です。
最後に、僕が研究している近江聖人・中江藤樹の『女訓』における記述を引用して締めくくりにしたいと思います。
「……天は力(Virtus)であり、万物は天より生じる。地は受ける側であり、天の生むものを受け、これを育てる。……前者は生み、後者は成す。」[1]
[1] 内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫2016年)130頁