「自由とは何か」 ヨハネによる福音書8章31~38節 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネによる福音書8章32節)
「自由とは何か」 深見 祥弘
今日は、礼拝後に恵老会を行います。例年恵老会は、6月第2日曜日におこなってきましたが、今年は教会の組織改編を行った関係で、9月の実施となりました。
旧約学者・松田明三郎(あけみろう、1894~1975)さんの「年輪」という詩があります。「私は樹木の年輪をみて わが生涯の年輪を思う。幸福な人生の春にはのびのびと成長し、きびしい試練の冬にはちぢこまった痕を残し、年ごとに層を加え、数えてみれば六十にあまる同心の円輪である。少年の日、水に溺れようとして友に助けられ、青年の頃胸を病んで 人生に望みを失った時、キリストによって救われた。戦いのはげしい時には、爆弾や焼夷弾が雨のように降る都心に住んでいたが、奇跡的に生き残された。ああ主よ!私の時はあなたのみ手にあります。私はかつて無価値な一本の苗木にすぎなかった。だが今、いささか価値のある僕であるとするならば、それは全く 年輪を重ねることをゆるして下さった 主の恩寵の故なのである。」(松田明三郎「詩集 星を動かす少女」福永書店)
わたしたちもまた、松田さんと同様に、事故や病い、戦争などさまざまな出来事の中で、友に助けられたり、キリストに救われたりしながら、生涯の年輪を重ねてきました。一本の苗木であるわたしたちが、生きる場を備えられ、このように年輪を重ねることができたのは、ただ主の恩寵ということができるでしょう。まさに「恵老」であります。
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書8章31~38節です。この箇所は、7章からはじまるイエスとユダヤ人たち(祭司・律法学者・ファリサイ派の人々)との論争記事の一つです。そして論争記事は、ユダヤ人たちがイエスに石を投げつけようとし、イエスが彼らから逃れるところ(8:59)で終ります。
ここでイエスは、「御自分を信じたユダヤ人たち」に語りかけます。ユダヤ人の中には、イエスと対立論争する人々だけでなく、イエスを信じた人々もいました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(31~32)
イエスを信じたユダヤ人といっても、彼らの信仰は様々です。イエスはそうした人々に対して、本当の弟子と言えるのは「わたしの言葉にとどまる」人であると言われました。「とどまる」という言葉は、ヨハネ福音書の中にくり返し出てくる大切な言葉で、それは人々がイエスの言葉に根底から支えられている状態のことです。イエスの言葉にとどまるならば、「あなたたちは真理を知る」と言われます。その「真理」とはイエスのことで、イエスがどのような御方であるのかを知ることができるのです。そして「真理」は、「あなたたちを自由にする」と言われました。
これを聞いてイエスを信じたユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(33)と問いました。歴史的には、ユダヤ人はエジプトやバビロンにおいて奴隷でありましたし、イエスの時代、ユダヤはローマの属国となっていました。ここで彼らが言っているのは、外面的には奴隷となったことがあっても、内面的にはアブラハムの子孫として神の契約である律法を守り、信仰の自由を維持してきたことについてです。イエスは、お答えになられました。「あなたたちがアブラハムの子孫であることは、分っている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(37~38) イエスの父は天の神であり、子なるイエスは父なる神の言葉を語ります。対してユダヤ人の父はアブラハムであり、ユダヤ人はアブラハムやモーセから聞いた律法を行っています。そのことでユダヤ人は、イエスの語る言葉を聞かず、罪の奴隷となって神の家を離れ、イエスを殺そうとしています。奴隷は、生涯同じ家に仕えることはできず、売り買いされて主人の家を離れることになります。対してその家の子は、生涯その家の主人の子であり、家を離れることはありません。それゆえにイエスは、父なる神の子イエスの言葉にとどまって弟子としていただき、まことの自由を得る者となりなさいと勧めているのです。
説教題を「自由とは何か」といたしました。「自由」とは、罪からの解放のことです。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(34) 神はモーセによって十戒(律法)を与えました。それは人が律法を通して、自らの罪に気づくためです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で議とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20) ところが人は、自分の力で律法を守ることができ、自分の力で救いを獲得できると考えるようになりました。もはや神に寄り頼まなくても救いを得ることができる、かえって神の元にとどまることは煩わしく不自由であると考えるようになりました。ここに罪があります。父なる神は偽りの自由を求めて神のもとを離れ、今罪の奴隷となっている人々を見てイエスを遣わし、神の家に連れ戻そうとしておられます。また人々が神の家にとどまり、イエスの言葉を聞くことによって神の子とされ、本当の自由を得ることを望んでおられるのです。
注解書に、哲学者・内山節(たかし)さんの「樹の自由」という文が紹介されていました。要約するとこうなります。木は種の間は自由であるが、芽を出してしまえば、生涯そこから動くことができません。通常、私たちはそのような状態を「不自由」と呼びます。しかし木は、動かないからこそ、自分の回りに必要なものを呼び寄せ、自由に生きることを可能にしています。すなわち、豊かに実をつけることで鳥を呼び寄せ、たくさんの落葉は微生物を呼び寄せます。人間は自己の自由を得るために、他者の自由を犠牲にすることがあるのに、木は他者の自由があるからこそ自分も自由に生きることができるのです。
イエスは、ご自分の言葉にとどまるようにと勧めておられます。わたしたちがみ言葉に根を下ろすならば、本当の自由を得ることができると教えておられるのです。み言葉に根をおろす(とどまる)ならば、助けが必要な時には友が来てくれますし、イエス・キリストも御手を差し伸べてくださいます。イエス・キリストの元に身を寄せ、み言葉に耳を傾ける多くの者が、与えられた自由によって、罪の奴隷になっているわたしを助けてくれるのです。
わたしたちは、植えられたところに根を降ろし、いろいろなことを経験しながら、苗木の時から年輪を重ねてきました。その植えられたところの一つが、教会であります。時にわたしたちは悪しき力の誘惑によって、教会を離れることができたら、どんなに楽で自由なことかと考えることもあります。悪しき力は、わたしたちに偽りの自由を見せながら、イエスの言葉からわたしたちを引き離そうとしているのです。偽りの自由は、自分の自由のために、他者の自由を侵害し、神の救いと自由の計画を空しくします。わたしたちは今、恵老を覚え、教会につながることで刻んできた信仰と自由の年輪を、感謝して数えてみましょう。
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